熊鼠之舎

閲覧ありがとうございます。中の人はいま20代です。

0004 旧宮家の復帰について

0.はじめに

昨日、喫緊の課題である皇位継承問題の有識者会議骨子案が取りまとめられたとの報道があった。それによると、

 イ、皇統に属する女性皇族が婚姻後も皇籍に残り公務を担う
 ロ、旧宮家の男系男子孫が現皇族の養子に入る
 ハ、旧宮家の男系男子孫を法律を以て直接皇族とする

の三案であるという。私は、イ・ロは邪道であり、ハを推し進めるべきだと考えている。その前に、皇位継承問題について少しまとめてから、特にロとハについてそう思う私見を述べたい。

さて、一般的に、皇位継承問題の解決策として

 ①自然に任せる(悠仁親王殿下が結婚し子を成す迄何もしない)
 ②旧宮家の復帰(GHQにより皇籍離脱した11宮家の皇籍復帰)
 ③女性天皇復活(男系女子への皇位継承権の一時/恒久的賦与)
 ④女性宮家創設(男系女性皇族の婚姻後の宮家創設・皇籍残留)
 ⑤女系天皇容認(父系に天皇を持たない人物への皇位継承容認)

の五点が挙げられて議論されているものと思う。これらの案の問題点として謂われているのは、反論は諸々あれど、以下の通りだろう。

 ①→そのタイミングになれば皇族数は更に減少してしまう。
   皇族一人に係る公務の負担も増大し、公務をより縮小せざるを得なくなる。
 ②→離脱から70年以上も民間人として生活した彼らに対し、
   国民は納得しないだろう。
 ③→皇室典範条文に違反するため改正しなければならない。
   男系男子が存命の中推進することは不敬ではないか。
 ④→民間人男子が皇室に入ることは前代未聞、許されない。
   その子供の地位はどうするのか。
 ⑤→天皇の地位は、父系を辿れば神武天皇に行きつく存在。
   皇室の乗っ取りを許し、皇室が破壊されてしまう。

私は、②・③の案を推進すべきだと考えているが、そう考える理由のうち、今回はタイトル及び前述の通り、旧皇族の直接復帰を主軸に書いていきたい。

1.現状の整理

皇位継承問題と並行して、皇族数の減少が問題となっている。現在の皇室の方々の数は

 男性;五方

天皇陛下上皇陛下、東宮殿下、悠仁親王殿下、常陸宮殿下

 女性;十二方

皇后陛下太后陛下、敬宮殿下、東宮妃殿下、佳子内親王殿下、常陸宮妃殿下、三笠宮妃殿下、寬仁親王妃殿下、彬子女王殿下、瑶子女王殿下、高円宮妃殿下、承子女王殿下

の計十七方しかおられない。

象徴天皇制下、重視された公務は数が減れば皇族御一方にかかる負担も過大となり、負担の軽減のため縮小しなければいけなくなっている

この皇族数減少による公務負担の増加の解決策が旧宮家の復活だと考えている。私の中では、この旧宮家復帰を決して皇位の安定継承の第一義的解決策として捉えない

2.復帰させるべき宮家

では、具体的にどの宮家、どの方を復帰させるべきだと考えているのか。

まず、皇別家の皇位継承順位をまとめたページが多く見受けられるが、その中に於いて、以下に当てはまる家は復帰させるべきではないと考えている。

「十一宮家の臣籍降下」以前に公家や華族となるなどして皇籍を離れた家
「十一宮家の臣籍降下」以後の家督継承で皇別以外の子を嗣子とした家
「十一宮家の臣籍降下」以後に他家の養子になった者、宮号を苗字としていない家

すなわち、

北白川家、東伏見家、梨本家、伏見家

閑院宮有栖川宮は既に断絶

清棲家*1・渋谷家・伏見伯爵家・華頂家(伏見宮系)、筑波家・鹿島家・葛城家(山階宮系)、粟田家・多羅間家・壬生家・寺尾家(東久邇宮系)、龍田家・宇治家(梨本宮系)、小松家*2・二荒家*3・上野家(北白川宮系)

鷹司家・華園家・梶野家・徳大寺家・高千穂家・千秋家・西園寺家・末弘家・醍醐家・住友家・菊亭家・南部家・山本家・近衞家・水谷川家・室町家・四辻家・東儀家・常磐井家・北河原家

已上の方々の皇籍復帰は無いものと思っても問題ないと思われる。

ゆえに、残る賀陽宮久邇宮朝香宮東久邇宮竹田宮*4の五家の皇籍復帰が望ましい。この五家は言わば「十一宮家の臣籍降下のとき離脱した家の中で、伏見宮父系男子孫が存命で且つ賜りし宮号を苗字に冠している家」と言えようか。

より細かく見ていこう。

賀陽宮家;賀陽正憲/同妻/同長男/同次男/賀陽文憲
久邇宮家;久邇邦昭/久邇朝尊/久邇邦晴*5
朝香宮家;朝香誠彦/同妻貴子/明彦
東久邇宮家;東久邇征彦/同母吉子/同妻/同長男
       東久邇眞彦/同長男照彦/同長男/同次男睦彦/同長男/東久邇盛彦
竹田宮家;竹田恒正/竹田恒貴/竹田恒治/同妻幾美子/竹田恒昭/竹田恒智
      竹田恒和/同妻昌子/竹田恒泰/同妻/同娘/竹田恒俊

以上の方々と、記載できていない妻や未婚の父系女子を皇族として還迎することを提案したい。(緑字は離脱前に諸王であった人物。)

その方法は、養子案ではなく、宮家ごと復帰させることである。即ち、

秋篠宮常陸宮三笠宮高円宮

       +

朝香宮賀陽宮久邇宮竹田宮東久邇宮

ということである。養子案ではない理由は、養子禁止を謳う皇室典範の論拠でもある「皇位継承順を恣意的に変更する可能性がある」という問題点を顧みたとき、例えば天皇陛下の養子となったならば、東宮殿下よりも継承順位が先行してしまいかねず、「養子による復帰は誰が、何人が、どなたに養子入りするのか」「皇位継承順はどうするのか」という点を漏れなく議論する必要があり、喫緊の解決策としてはそぐわないためである。そう考えたとき、宮家ごと復帰させることは、可及的速やかに実行でき、かつ現状の皇位継承順位変更への懸念は無くて済む。

また、復帰に併行して、復帰した方々の父系尊属を「没前の皇籍に在った際の身位に復し、それのない者には王号を追贈する(没後の皇籍復帰)」という措置にするべきだと考える。 即ち、上記の方々で謂えば、

賀陽宮尊属;賀陽恒憲→賀陽宮恒憲王/妻賀陽敏子→恒憲王妃敏子
       賀陽章憲→章憲王/妻良子→章憲王妃良子
久邇宮尊属;久邇朝融→久邇宮朝融王/母久邇俔子→邦彦王妃俔子
朝香宮尊属;朝香孚彦→朝香宮孚彦王/妻千賀子→孚彦王妃千賀子
       朝香鳩彦→朝香宮鳩彦王
・東久邇尊属;東久邇信彦→東久邇宮信彦王
       東久邇盛厚東久邇宮盛厚王/妻成子→盛厚王妃成子内親王
       東久邇稔彦東久邇宮稔彦王/妻聰子→稔彦王妃聰子内親王
竹田宮尊属;竹田恒徳→竹田宮恒徳王/妻光子→恒徳王妃光子

となる。これは、皇籍にある宮家としての断絶を避けるための措置である。

3.復帰させるべき理由

別の機会に述べるとするためここでは女性宮家女系天皇の問題は触れないでおくが、ではどうして旧宮家の復帰なのか。

それは、臣籍降下後の皇族が皇籍に復帰するという先例が存在するからである*6。日本の皇室は先例主義である。先例にないことを導入するためには、それを導入するだけの国内的重要事由が必須であり、それを導入しようとする者こそ、納得のいく説明をする義務がある。果たして女性宮家女系天皇推進派はそれを説明できるのか。私はいまだそれを聞いたことがない。

そもそも、これから現れるかもしれない皇統に属する男系女子の夫及び子を想定して行う議論よりも、今現在実際に存在している旧宮家の方々を復帰させるという、先例にも適う議論を行う方がより現実的ではないだろうか

また、「国民の納得」についてだが、納得しない理由の中には、どうやら「旧宮家復帰=天皇即位」と飛躍した、短絡的な理解をしている族が少なくない。しかし、「旧宮家復帰≠天皇即位」である。これから先、何事もなければ東宮殿下、悠仁親王殿下は皇位を継承され、所生あればそちらが優先される。この点はしっかりと、国民は理解しなければならないはずだ。そのうえで、上皇陛下、天皇陛下と大切にされたご公務を引き継ぐ皇族をすぐに増やすためには、先例を優先させるのが至極妥当である。

4.追伸

前回の投稿から一年以上も空いてしまったが、次は女性天皇について書いてみようと思う。どれくらいかかるか……。

(3500文字)

5.脚注

*1:祖は清棲家教。元渋谷家。実子は渋谷家を継承し、家督は真田家の幸保に継承。

*2:祖は小松輝久。

*3:祖は二荒芝之。伊達宗徳の子・芳徳を養子に取った。

*4:班位の順。

*5:久邇朝建氏は長女桂子の子朝俊氏が当主筋となっている。
朝宏氏の所生は女子二方で婿養子を取っており、両者とも皇統から外れている。
朝建氏には明俊氏という子がいるという話があり、確認できなかったため今回除外したが、父系子孫で婿養子を採っていなければ十分復帰に資する。

*6:宇多天皇醍醐天皇鎌倉幕府7代将軍惟康親王等。特に醍醐天皇は臣下に生まれのち皇籍に復帰した。

0003 現行の「皇嗣」呼称について

1.皇嗣ではなく皇太弟を

昨年の太上天皇陛下の譲位により、天皇陛下が即位され、秋篠宮殿下が皇位継承者第一位となられた。

秋篠宮殿下は、天皇陛下の嫡子でなく弟宮に当たるため「皇太子」とは呼称できない。そこで政府は、殿下には「皇嗣」という語を用いるにとどめた。

だがやはり、よく言われる通りではあるが、秋篠宮殿下は「皇太弟*1である。脚注を見ていただければ、古代から長く用いられている語であることはお分かりいただけるだろう。やはりここは、「皇太弟」という歴史的な呼称を復活させ、公的なものとして規定すべきではないか。

平安時代には、編纂物『日本後紀』や勅撰漢詩集『凌雲集』の用例だけでなく、現存最古の平安貴族の日記である藤原忠平の『貞信公記』や、現存最古の直筆日記として世界記憶遺産にもなった藤原道長の『御堂関白記』、道長の望月の歌が記されていることでも知られる藤原実資小右記』にも見られる。戦国時代に著された『官職難儀』は神祇権大副吉田兼右の有職故実書である。

 かの特例法に関し、「上皇后」なる未知の語を新設すべきでも、「上皇」という略号を公式な称号とすべきでもない。日本が持つ永い皇室の歴史に照合すべきだ。

皇嗣たる皇弟を、皇太弟という。皇太弟のないとき、皇嗣たる皇甥を皇太甥という。
前項の者がいないとき、皇嗣たる皇叔父を皇太叔という。

現況*2を鑑みて、こういった感じの条文を創設することがよいと考える*3

2.皇嗣職も不要

そして、東宮職にかわって新設された皇嗣職なる存在も、新設不要である。皇位継承者は「皇嗣」であるが「東宮」でもある。皇太弟であっても、他の記録などには「東宮」と記される例が多くあるのだ。かの特例法に即せば、宮内庁法の附則に、

東宮職は、(特例法の規定による)皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関する事務を遂行する。

のような条文がたった一文あれば良かったはずである。

なぜ皇太弟でなくただの「皇嗣」なのか。敬宮殿下こそ皇太子だから法を変えて立太子すべきだ!なんて考える族が画策しているのだろう。(迷推理……ではないむしろ名推理(!?))

上皇后」も「皇太弟・皇太叔など」も律令規定の無い用語であるのに前者がダメで後者が良いとしている個人的な理由は、より妥当な表現が広く長く使われ存在しているのにもかかわらず、新設する正当な意味・理由が(見当たら)ないからである。

皇嗣」に関しては、使用例はある*4ものの、等しく皇位継承者であるにもかかわらず天皇の嫡男子とそれ以外、という差別化にひどく疑問を感じるからである。

3.まとめて「東宮」と呼称する案

1.で「皇太弟」「皇太甥」「皇太叔」の語を用いればよい、としたが、
それらに加え「皇太子」「皇太孫」も含め、全部ひっくるめて、

東宮

とする案も、また考えられよう。
東宮という語は馴染みないかもしれないが、そもそも律令に規定された語であり、東宮職員令という令も存在する。また、先に見た通り現行の宮内庁の職に「東宮職」が存在するが、これは律令の名残である。つまり、皇位継承者=皇嗣東宮に仕える職である。東宮と改称すれば、皇太子でなければ正式な皇位継承者ではないなどという全く理解不能な言説も生まれて来る隙もあるまい。

すなわち、皇位継承者を総称した皇嗣東宮と改め、其々の続柄に合わせて皇太子・皇太孫・皇太弟などの表現を用いれば良いと考える。

例えば、今の皇位継承者第一位は「秋篠宮皇嗣殿下」の表現に倣えば、

秋篠宮東宮殿下であり、皇太弟殿下である、ということになる。

4.立皇嗣の礼の改称

3.のように皇嗣ではなく東宮とするならば、立皇嗣の礼は立東宮の礼となるのか。そんなことはない。皇太弟なら立太弟の礼、ともならない。そのような言葉は存在しない。

そこで提案したいのは、続柄に関係なく全て①「立坊の礼」とする、②「立儲の礼」とする、③「立太子の礼」とする、の三案である。

立坊は、皇位継承者=東宮の家政機関である「春宮坊」に由来する語で、立太子を意味する語として歴史的に用いられてきた。また立儲は、皇太子の別称「儲けの君」を「立てる」に由来し、より身近な例として明治になり制定された立太子の儀式に関する内容を定めた「立儲令」にも用いられた、歴史的な語である。③に関しては、皇太弟であっても立太子とされた例が見られるから案として挙げさせていただいた。

ちなみに、③に関しては、猶子の制度を用いて、いかなる続柄であっても天皇の子であるとみなして「立太子」した、と説明ができる。猶子の制度を復活させると続柄に依って異なる称を付ける必要がなくなってしまうので、皇太弟だ皇太叔だという論はなくなるかもしれない。

私は、猶子制度の限定的な復活と②「立儲の礼」のが推しである。猶子については、機会があればまた別で述べたいと思う。皆さんは、いかが思われるだろうか。

 

少しはブログっぽくなったかな……?

(3590字)

*1:すべてではないが、用例は以下の通りである。
日本後紀』大同元年五月十九日条「壬午。追尊皇大后為大皇大后、皇后為皇大后。』詔弾正尹某〈嵯峨〉、定賜皇太弟宮内卿藤原朝臣園人為皇太弟、林宿禰沙婆為学士、秋篠朝臣安人為春宮大夫。」
凌雲集』目録 御製廿二首「夏日皇太弟南池」「秋日皇太弟池亭賦天字」
日本後紀弘仁元年九月戊戌朔庚戌条「是日廃皇太子、立中務卿淳和皇太弟。詔曰『(中略)立而、皇太弟定賜。(後略)』」
日本紀略弘仁元年九月戊戌朔庚戌条「立為皇太弟。」
貞信公記』天慶八年正月一日条「上御南殿、皇太弟参上。宴会如常。太弟不及禄時退下。」
貞信公記』天慶九年正月一日条「御南殿、節会如例。皇太弟□□(参上ヵ)。(後略)」
日本紀略』天慶九年四月廿日条「廿日庚辰。天皇逃位於皇大弟成明親王。(後略)」
日本紀略』康保四年九月一日条「一日丙戌。立先皇第五皇子守平親王、為皇太弟年九、即任坊官。」
日本紀略』寛仁元年八月九日条「(前略)即日、立帝同胞弟敦良親王、為皇太弟。」
小右記』寛仁元年八月九日条「(前略)今日皇太弟立給日、而無外記告、(後略)」
御堂関白記』寛仁元年八月九日条「九日甲戌。暁参内。女方同参。以三宮立皇太弟宣命申時、(後略)」
御堂関白記』寛仁元年八月廿一日条「廿一日丙戌。此日皇太弟御慶参上上。(後略)」
百錬抄』長元九年四月十七日条「天皇崩于清凉殿。廿九。剣璽皇太弟。(後略)」
百錬抄』永治元年十二月七日条「天皇譲位於皇太弟。〈于時土御門殿。〉以関白為摂政。」
公卿補任』近衞天皇永治元年条「(前略)十二月七日禅位於皇太弟三歳。(後略)」
百錬抄白河院即位前記「(前略)同四年十二月八日受禅。年廿。是日、立実仁親王皇太弟。〈後三条院第二子。〉(後略)」
百錬抄白河院応徳二年条「十一月八日。皇太弟実仁薨。〈十五。後三条院第二子。〉」
綸旨抄』牛車事「宣旨
          皇太弟宜聴乗牛車出入公門事
         右 宣旨早可被下知之状如件
           建永元年九月廿四日 権中納言資実
          大外記殿」
官職難儀』「春宮とはいかゞしたる時申候や。
当代の次に御位につかせ給べきを春宮に成し申さるゝ也。立坊節会とて節会を行て定らるる也。押て春宮とは申さず。当代の皇子にても。又御弟にても。又他の御流にても。時による事也。其内御器量をえらまれ侍る也。皇太子と申也。御弟の時は皇太弟と申。それもたゞ皇太子と申たる例も勿論なり。東宮春宮同事なり。(後略)」

其々がいづれの御方に当たるか気になる方は、御自身でお調べください。また、皇太弟を称した最初の例と言われる天武天皇については、『日本書紀』の中では、

天智七年五月五日条「天皇縱獦於蒲生野。于時大皇弟諸王内臣及群臣、皆悉從焉。」
天智八年夏五月五日条「壬午。天皇縱獦於山科野。大皇弟藤原内大臣鎌足及群臣、皆悉從焉。」
天智八年冬十月十五日条「庚申。天皇東宮大皇弟於藤原内大臣鎌足家、授大織冠与大臣位。仍賜姓為藤原氏。自此以後、通曰藤原内大臣。」
天智十年春正月六日条「甲辰。東宮太皇弟奉宣、(下略)」
など、「大皇弟」表記である。紀の中では、他には天武=大海人皇子のことを単に「東宮」と称している。

*2:現在の皇位継承者が皇弟・秋篠宮殿下、皇甥・悠仁親王殿下、皇叔父・常陸宮殿下の三方であるという状況。

*3:「皇太叔」は、中国の『新唐書』武宗本紀などに用例がある。
会昌六年三月廿一日条「三月壬戌。不予。左神策軍護軍中尉馬元贄立光王怡為皇太叔、(後略)」
また、日本でも『立川寺年代記六条天皇記などに用例が見える。
「第七十九六條院。諱信仁。〈或云順仁。〉又云新院。二條院之太子。永万元年乙酉二歳御即位。仁安三年位皇太叔禅。治天四年。」

*4:続日本紀天平宝字元年四月戊寅朔辛巳条「天皇召群臣問曰、當立誰王、以為皇嗣。(後略)」

0002 現行の「上皇后」呼称について

所謂退位特例法の第四条「上皇の后は、上皇后とする。」により、上皇后なる名が新たに創出された。

甚だ遺憾に思う。同条第二項は「上皇后に関しては、皇室典範の定める事項については、皇太后の例による。」とされている。

太后でいいじゃんか!

そう思った。

太后の意味は、
 天皇の生母。後略(角川古語大辞典)
 天皇の生母で、先帝の皇后。後略日本国語大辞典
 先代の天皇の皇后。後略(百科事典マイペディア)
 先代の天皇のきさき。天皇の母で、皇后であった人。後略大辞林第三版)
 先天皇の皇后で、天皇の母をいう。後略日本大百科全書ニッポニカ)
などである。
そもそも令義解公式令第卅六平出条」には、

  皇太后皇太妃。皇太夫人同。〈謂天子母登后位者為皇太后*1

とある。
太后とは、天皇の母、もしくは先代の天皇すなわち太上天皇の皇后なのである。

  ”天皇の母=今上天皇の生母、先代の天皇の皇后=上皇陛下の皇后”

辞書的説明や史料を見ても、上皇后陛下には「太后」という身位がぴったり当てはまることが分かる。

 

ではなぜ、「上皇后」となったのか?

それは、
 ①皇太后に「未亡人」のイメージが強いから
 ②戦後の政府官報の英訳が夫を亡くした皇后を指す語を用いてしまったから
だとされる。

 

しかし、未亡人のイメージは、永い皇室の歴史の中では最近のイメージではないか。新たな身位を創成して歴史に名を残そうなどと思ったのかもしれないが、もし、そう思っていたのであれば、斯様な族は日本に不必要である。そもそもたかだか数十年のイメージで壊していいものなのだろうか。皇室は、本来庶民の印象で事を変えられるものではないはずだ。

官報の記載「Empress Dowarger」は、改めて記述し訂正すればよいのではないか。上皇后の英訳「Empress Emerita」を皇太后に当てればよい。またこれに合わせて、太皇太后の英訳も「Grand Empress Emirita」と改めればよいだろう。

 

現行の皇室典範には規定がないから、改めて、
例えば、
先の天皇の皇后を皇太后という。二代前の天皇の皇后を太皇太后という。
のような条文を作ればよいだろう、ということを私は提案したい。

ちなみに「天皇の生母」を皇太后と規定してしまうと、現状を考えた時などに困ったことが想定される。今上陛下が譲位されるなどして秋篠宮殿下が「天皇」に御即位されるとき、「天皇」の生母は「上皇后」陛下となり、「皇后」陛下の身位の行き場が無くなってしまうから、そういったことが起こらないためにも、先代の天皇を皇太后として改めて規定すべきだ、ということである。

再び一系の継承でなくなる今だからこそ、しっかりと尊号についても規定すべきではないだろうか。

(1160文字)

 

(追伸)官報については調べられておらず、訂正することが難しいなどあるのかもしれない。しかし、それを乗り越えてでもする意義があると考えている。

*1:書き下し;謂はく天子の母、后位に登る者皇太后と為す。

0001 現行の「上皇」呼称について

宮内庁のホームページには、皇統の系図が載せられてある。

皆さんは御覧になったことはあるだろうか。これがURLである。↓

宮内庁天皇系図」<https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html>

 

この系図を見て、違和感を覚えないだろうか。


そう、敬称「陛下」が、「上皇陛下」にのみ付されているのである。
なぜこのようなことが起きたのか考えてみたいのだが、それは単純明快であろう。

 

「前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。」

 

所謂退位特例法の第三条の規定により、「退位」した天皇を「上皇」としたからである。
二文字では気持ちが悪いと思ったのか、四文字にすべく「陛下」を付したと考えられよう。

 

在位中の天皇には「今上天皇」「今上陛下」「天皇陛下」「今上」「当今」「主上」など様々な呼称があるが、系図上「今上天皇」とされ、敬称である「陛下」は付されていない。もし「上皇陛下」に合わせるならば「今上陛下」「天皇陛下」などとするのが良いだろう。

上皇に敬称が付き、今上天皇には敬称が無いのは、「上皇陛下が上なんだ!」のような、(でっちあげられた)二重権威問題に利用されまいか。

 

そもそも、養老令儀制令第一天子条*1に規定されている通り、譲位した天皇太上天皇である。あくまでその略称が上皇なのだ。上皇と言う語が定着こそすれ、略される前の語を用いるのが良いと考える。
ここでこの系図中の「上皇陛下」を「太上天皇」としたらどうだろうか。

(前略)―仁孝天皇孝明天皇明治天皇大正天皇昭和天皇太上天皇今上天皇

歴代天皇と並び、即位されていない皇族方を除き下方二文字が「天皇」の語で統一された美しい系図が完成する。

 

系図は「図」である。美しくなければならない。それを構成する線分も文字もその例外ではない。系図一つとっても、やはり「太上天皇」と表記し、それを正式の名として定めるのが良いだろう。
言いたいことは、法律上において「上皇」ではなく正式名称の「太上天皇」とすべきだということである。

 

例えば、
譲位した天皇太上天皇といい、上皇と略称する。
こういった文言がかの特例法にあればよかったのではないか。こうすれば、普段は「上皇陛下」(報道機関は「上皇さま」か)と称せるし、公式の文書では「太上天皇」と記載される、ただそれだけのことである。太上天皇陛下の御存命中に正式名称としての太上天皇号の復活を甚く望んでいる。

(1040文字)

*1:太上天皇。〈讓位帝所稱。〉」

0000 まえがき

初めまして。「熊鼠(ゆうそ)」です。

このブログは「熊鼠之舎(ゆうそのいえ)」と称して、社会に対して思ったことなどを書いていこうと思っています。

書く上では色々と見たり調べたりしてから、とは思っているのですが、なにぶん若輩者ですので、参照しきれていない資料も多くあると思います。

もしかしたら既に同じ論を誰か別の人が言っていたり、

もしかしたら私の意見の論拠を別の資料を以て崩すことが出来たり、

などなど、その時は、是非とも御教示願いたいです。

炎上は願うところではありません。優しく教えてもらえたら、恐悦です。

(250文字)