熊鼠之舎

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0003 現行の「皇嗣」呼称について

1.皇嗣ではなく皇太弟を

昨年の太上天皇陛下の譲位により、天皇陛下が即位され、秋篠宮殿下が皇位継承者第一位となられた。

秋篠宮殿下は、天皇陛下の嫡子でなく弟宮に当たるため「皇太子」とは呼称できない。そこで政府は、殿下には「皇嗣」という語を用いるにとどめた。

だがやはり、よく言われる通りではあるが、秋篠宮殿下は「皇太弟*1である。脚注を見ていただければ、古代から長く用いられている語であることはお分かりいただけるだろう。やはりここは、「皇太弟」という歴史的な呼称を復活させ、公的なものとして規定すべきではないか。

平安時代には、編纂物『日本後紀』や勅撰漢詩集『凌雲集』の用例だけでなく、現存最古の平安貴族の日記である藤原忠平の『貞信公記』や、現存最古の直筆日記として世界記憶遺産にもなった藤原道長の『御堂関白記』、道長の望月の歌が記されていることでも知られる藤原実資小右記』にも見られる。戦国時代に著された『官職難儀』は神祇権大副吉田兼右の有職故実書である。

 かの特例法に関し、「上皇后」なる未知の語を新設すべきでも、「上皇」という略号を公式な称号とすべきでもない。日本が持つ永い皇室の歴史に照合すべきだ。

皇嗣たる皇弟を、皇太弟という。皇太弟のないとき、皇嗣たる皇甥を皇太甥という。
前項の者がいないとき、皇嗣たる皇叔父を皇太叔という。

現況*2を鑑みて、こういった感じの条文を創設することがよいと考える*3

2.皇嗣職も不要

そして、東宮職にかわって新設された皇嗣職なる存在も、新設不要である。皇位継承者は「皇嗣」であるが「東宮」でもある。皇太弟であっても、他の記録などには「東宮」と記される例が多くあるのだ。かの特例法に即せば、宮内庁法の附則に、

東宮職は、(特例法の規定による)皇位の継承に伴い皇嗣となった皇族に関する事務を遂行する。

のような条文がたった一文あれば良かったはずである。

なぜ皇太弟でなくただの「皇嗣」なのか。敬宮殿下こそ皇太子だから法を変えて立太子すべきだ!なんて考える族が画策しているのだろう。(迷推理……ではないむしろ名推理(!?))

上皇后」も「皇太弟・皇太叔など」も律令規定の無い用語であるのに前者がダメで後者が良いとしている個人的な理由は、より妥当な表現が広く長く使われ存在しているのにもかかわらず、新設する正当な意味・理由が(見当たら)ないからである。

皇嗣」に関しては、使用例はある*4ものの、等しく皇位継承者であるにもかかわらず天皇の嫡男子とそれ以外、という差別化にひどく疑問を感じるからである。

3.まとめて「東宮」と呼称する案

1.で「皇太弟」「皇太甥」「皇太叔」の語を用いればよい、としたが、
それらに加え「皇太子」「皇太孫」も含め、全部ひっくるめて、

東宮

とする案も、また考えられよう。
東宮という語は馴染みないかもしれないが、そもそも律令に規定された語であり、東宮職員令という令も存在する。また、先に見た通り現行の宮内庁の職に「東宮職」が存在するが、これは律令の名残である。つまり、皇位継承者=皇嗣東宮に仕える職である。東宮と改称すれば、皇太子でなければ正式な皇位継承者ではないなどという全く理解不能な言説も生まれて来る隙もあるまい。

すなわち、皇位継承者を総称した皇嗣東宮と改め、其々の続柄に合わせて皇太子・皇太孫・皇太弟などの表現を用いれば良いと考える。

例えば、今の皇位継承者第一位は「秋篠宮皇嗣殿下」の表現に倣えば、

秋篠宮東宮殿下であり、皇太弟殿下である、ということになる。

4.立皇嗣の礼の改称

3.のように皇嗣ではなく東宮とするならば、立皇嗣の礼は立東宮の礼となるのか。そんなことはない。皇太弟なら立太弟の礼、ともならない。そのような言葉は存在しない。

そこで提案したいのは、続柄に関係なく全て①「立坊の礼」とする、②「立儲の礼」とする、③「立太子の礼」とする、の三案である。

立坊は、皇位継承者=東宮の家政機関である「春宮坊」に由来する語で、立太子を意味する語として歴史的に用いられてきた。また立儲は、皇太子の別称「儲けの君」を「立てる」に由来し、より身近な例として明治になり制定された立太子の儀式に関する内容を定めた「立儲令」にも用いられた、歴史的な語である。③に関しては、皇太弟であっても立太子とされた例が見られるから案として挙げさせていただいた。

ちなみに、③に関しては、猶子の制度を用いて、いかなる続柄であっても天皇の子であるとみなして「立太子」した、と説明ができる。猶子の制度を復活させると続柄に依って異なる称を付ける必要がなくなってしまうので、皇太弟だ皇太叔だという論はなくなるかもしれない。

私は、猶子制度の限定的な復活と②「立儲の礼」のが推しである。猶子については、機会があればまた別で述べたいと思う。皆さんは、いかが思われるだろうか。

 

少しはブログっぽくなったかな……?

(3590字)

*1:すべてではないが、用例は以下の通りである。
日本後紀』大同元年五月十九日条「壬午。追尊皇大后為大皇大后、皇后為皇大后。』詔弾正尹某〈嵯峨〉、定賜皇太弟宮内卿藤原朝臣園人為皇太弟、林宿禰沙婆為学士、秋篠朝臣安人為春宮大夫。」
凌雲集』目録 御製廿二首「夏日皇太弟南池」「秋日皇太弟池亭賦天字」
日本後紀弘仁元年九月戊戌朔庚戌条「是日廃皇太子、立中務卿淳和皇太弟。詔曰『(中略)立而、皇太弟定賜。(後略)』」
日本紀略弘仁元年九月戊戌朔庚戌条「立為皇太弟。」
貞信公記』天慶八年正月一日条「上御南殿、皇太弟参上。宴会如常。太弟不及禄時退下。」
貞信公記』天慶九年正月一日条「御南殿、節会如例。皇太弟□□(参上ヵ)。(後略)」
日本紀略』天慶九年四月廿日条「廿日庚辰。天皇逃位於皇大弟成明親王。(後略)」
日本紀略』康保四年九月一日条「一日丙戌。立先皇第五皇子守平親王、為皇太弟年九、即任坊官。」
日本紀略』寛仁元年八月九日条「(前略)即日、立帝同胞弟敦良親王、為皇太弟。」
小右記』寛仁元年八月九日条「(前略)今日皇太弟立給日、而無外記告、(後略)」
御堂関白記』寛仁元年八月九日条「九日甲戌。暁参内。女方同参。以三宮立皇太弟宣命申時、(後略)」
御堂関白記』寛仁元年八月廿一日条「廿一日丙戌。此日皇太弟御慶参上上。(後略)」
百錬抄』長元九年四月十七日条「天皇崩于清凉殿。廿九。剣璽皇太弟。(後略)」
百錬抄』永治元年十二月七日条「天皇譲位於皇太弟。〈于時土御門殿。〉以関白為摂政。」
公卿補任』近衞天皇永治元年条「(前略)十二月七日禅位於皇太弟三歳。(後略)」
百錬抄白河院即位前記「(前略)同四年十二月八日受禅。年廿。是日、立実仁親王皇太弟。〈後三条院第二子。〉(後略)」
百錬抄白河院応徳二年条「十一月八日。皇太弟実仁薨。〈十五。後三条院第二子。〉」
綸旨抄』牛車事「宣旨
          皇太弟宜聴乗牛車出入公門事
         右 宣旨早可被下知之状如件
           建永元年九月廿四日 権中納言資実
          大外記殿」
官職難儀』「春宮とはいかゞしたる時申候や。
当代の次に御位につかせ給べきを春宮に成し申さるゝ也。立坊節会とて節会を行て定らるる也。押て春宮とは申さず。当代の皇子にても。又御弟にても。又他の御流にても。時による事也。其内御器量をえらまれ侍る也。皇太子と申也。御弟の時は皇太弟と申。それもたゞ皇太子と申たる例も勿論なり。東宮春宮同事なり。(後略)」

其々がいづれの御方に当たるか気になる方は、御自身でお調べください。また、皇太弟を称した最初の例と言われる天武天皇については、『日本書紀』の中では、

天智七年五月五日条「天皇縱獦於蒲生野。于時大皇弟諸王内臣及群臣、皆悉從焉。」
天智八年夏五月五日条「壬午。天皇縱獦於山科野。大皇弟藤原内大臣鎌足及群臣、皆悉從焉。」
天智八年冬十月十五日条「庚申。天皇東宮大皇弟於藤原内大臣鎌足家、授大織冠与大臣位。仍賜姓為藤原氏。自此以後、通曰藤原内大臣。」
天智十年春正月六日条「甲辰。東宮太皇弟奉宣、(下略)」
など、「大皇弟」表記である。紀の中では、他には天武=大海人皇子のことを単に「東宮」と称している。

*2:現在の皇位継承者が皇弟・秋篠宮殿下、皇甥・悠仁親王殿下、皇叔父・常陸宮殿下の三方であるという状況。

*3:「皇太叔」は、中国の『新唐書』武宗本紀などに用例がある。
会昌六年三月廿一日条「三月壬戌。不予。左神策軍護軍中尉馬元贄立光王怡為皇太叔、(後略)」
また、日本でも『立川寺年代記六条天皇記などに用例が見える。
「第七十九六條院。諱信仁。〈或云順仁。〉又云新院。二條院之太子。永万元年乙酉二歳御即位。仁安三年位皇太叔禅。治天四年。」

*4:続日本紀天平宝字元年四月戊寅朔辛巳条「天皇召群臣問曰、當立誰王、以為皇嗣。(後略)」